毎日がはじめまして



推しに認知されてる友達とご飯したので。
私はできれば認知されたくない。接触系のイベントは毎回初めましての気持ちで臨んでいる。推しは2人いるけど、推し1はそこそこファンの数がいる(と思う)し、私はたいしてループするタイプではないので覚えてもらっているとは思っていない。その方が純粋にお客さんに対する反応が見れるような気がするから、覚えてもらうつもりもない。推し2については少し前に友達ほぼ全員から「いやもう諦めろ」と言われる出来事があったりなかったりしたけど、次にこの子見るのだいぶ先だしまだ諦めてない。それまでに忘れてほしいなあ 初めましてしたい。あのっ初めてイベント来たんですけどっ みたいなことしたい。だめか。


推し2についていえば、たぶん彼は頑張って覚えようとしてる(主観)。その努力は褒め称えるし、そもそも覚えてもらえるということは手放しに嬉しい。レスがほしいとか私信がほしいとか特別扱いしてほしいとかじゃなくて、定型句の「ありがとう」に込める気持ちが「いつもありがとう」になるのが嬉しい。覚えてほしいファンもいるだろうし、そうじゃなくても軽い気持ちでいたけど覚えてくれたならもっと推そうかな!ってなるファンもいると思う。覚えようとしてるなら頑張れって思う。でも私のことは覚えないでくれ。

ちなみに、向こうが認知してることがわかるような対応をするのも、こちらが認知されてることを分かっているようなことを言うのも、全然アリだと思う。(実際、認知されてる友達の話を聞くのはめちゃくちゃ楽しい もっと聞きたい)



認知を求めてない友達の話も聞いたりしてそういう考えもあるのかと納得したし、すごい同意する考えもあった。もともとの自分の考えにこれも加えておこう、みたいなのも見つけた。

でもわたしはただなによりも、忘れられるのが怖い。

この感情は完全に実体験に基づくので以下過去を掘り返す話になってしまうけど、かつて推しになりそうな子がいた。平たい意味での若手俳優というよりもほんとにもっともっと出たばっかりの俳優くん。たまたま行った舞台で見かけて、かわいいし面白いしなんかわかりやすく一生懸命だしで、舞台やイベントに何回か足を運んだ。当時の私をファンと呼べるかどうかは微妙なところだけど、そのときは推し2の存在をまだ知らなくて気持ちも財布も(多少)余裕があって、ああこの子を推していけたらいいなあと思っていた。
自惚れと思い込みを含めてもたぶん覚えてもらったのはファンの中でも割りと早い方で、「今日もありがとう!」なんて笑顔で言ってもらえたことが嬉しくて、推しになるならないの境界線ってどこだろうとか考えてた。
そのあとしばらく運悪く予定が合わなくて、何回か行かなかった。這ってでも行けよと言われても仕方ない。その何回かのあとのイベント、久しぶりなことに少し緊張して、でも楽しみだなあとかお気楽に考えていて、頭の中がお花畑だったかなと思う。終了後の見送りまで含めてがそのイベントだったけど、私はうっかり「しばらく行けなくてすみません。久しぶりで楽しかったです」なんてことを言ったと思う。それに対する彼の反応は「えっ えっと……?」だった。
若かったし、出たばっかりだったし、経験も少ないし、トークもまだまだ下手だったし、接触のときの会話も思いっきり素が出ていた。だから、初めまして来てくれてありがとう、のような対応をしようとしたところ思いがけないことを言われての反応だったんだと思う。彼のことは全然責めてない。いや、そのときはさすがに心の中で責めた。
行けなかったのは舞台二本。小劇場。たかが二本、されど二本。
二本行けなくて忘れられたことがショックだったし、覚えてもらえてると思っていたのでショックだった。正直な気持ちを言えば、このファンの人数で忘れるのかよ、とすら思った。今は全然責めてない。

今にして思えば、覚えていてもらえるなんてわがままもいいとこだし、二本とはいえ彼の出演作であることに変わりはないけど、ショックなんて一言じゃ表現できないくらいの衝撃だった。

なんとなくそのあと行かないことが続いて、彼は結局推しにはならなかった。
でも私にとっては、忘れられることが今でも怖い。それが誰であっても。
覚えてもらっているという自負を持たないようにして、推しは私を覚えてないんだと予防線を張って、初めましてのフリをして握手をする。

いやさすがに、もうこれはだめだ覚えられてる諦めようみたいな段階まで来たら、初めましてのフリはやめます。





かつてブログを書いてた古のおたくなので、書くのたのしい。ネタが浮かんだらつい書いちゃう。


わたしの推しごと論

 

 


私はりあこではないけれど、推しのことが好きで好きで仕方ない。だって推しだもん。望むことはなんだってさせてあげたいし、こうなりたいと思うものがあるんだったら、そのためにできることはなんでもする。

勘違いしないでほしいのが、「なにをしても許す」というわけではない。最低限の礼節を持っていてほしいし、仕事は真剣に取り組んでほしい。いやいやそれは……というようなことをしたら嫌いになるかもしれないし、応援したいと思わせてくれば推せない。

先日俳優おたくではない友人に、「そんなにイケメンばっかり見てるから満足して彼氏作る気にならないんじゃない?」と言われた。まあ、普通に考えたらそうだよね。若くてかわいくてかっこいい男性を見てたら現実の男(俳優だって現実に存在するけど)なんてみんなジャガイモのように見えてくるんじゃない、という意味だったと思う。

重ねて言うが、私はりあこではない。推しと付き合いたいわけではないし、友達にもなりたくない。そもそも繋がりたくない。(パトロンかスポンサーにはなりたい)

 

 

推しが推しである以前に、俳優という彼らは、私にとってエンターテイメントの一つでしかないのだ。

舞台、イベントといったエンタメを提供してくれるコンテンツのひとつにすぎない。そういう観点では、推しも推しじゃない俳優も同じだ。ただその中で、重点的に見ていたいなとか、活躍を後押ししたいなとか、そういう気持ちが生まれて晴れて推しになる。

推しに甘いとよく言われるが、私は彼というコンテンツを十二分に消化したいだけなのだ。だから、例えば舞台に行って「楽しくなかったなあ」と思って帰りたくない。今日はだめだったなあ、ここが嫌だったなあなんて心のひっかかりはただのひとつも持ちたくない。だってエンターテイメントだから。楽しいをくれる存在でなければいけない。

だから、私の「楽しい」の感情を阻害するようなことを言われたりされたりすれば怒る。

だから、できるだけ良いところを見つけて目を向ける。

そんなところから、推しに甘いと言われるようになったんじゃないかと思う。

 

 

話が逸れるが、推しもしくは推しに関わるコンテンツは他の人にも楽しんでほしい。

押し付けがましいお節介野郎だという自覚はもちろんある。どういうスタンスで臨もうが、どういう気持ちでいようが個々人の自由だけど、時間もお金も使ってるんだからできれば楽しい気持ちでいたくない?自分と同じ考えになってほしいとは思わないし、考え方を強制するつもりも矯正するつもりもないけど、こんな考え方もあるんだよ、の思いでこれをしたためている。長くなりそうなのでこれはまた別の機会に。

 

閑話休題

だからなにが言いたいかというと、もっと楽な気持ちでいていいじゃん、と思う。だって推しである以前に俳優という「コンテンツ」なのだから。楽しまなきゃ損だよ。よく、「こんなんじゃ推しとは言えないね」なんて話を聞くけど、こうこうこういう条件をクリアしたから推しです!なんて目に見える基準が設けられているわけではないし、そもそもその基準を決めるのは自分自身だ。時間もお金もかけていようがいまいが、自分が推しだと思ったから彼は推しなんでしょう。その気持ちにだけは自信持ってよ、少なからず好きなんでしょ。

 

自分の考えを整理するために書いているけど、いつか、いま思い浮かべているあの子がもっと楽に楽しく推し事ができる一助になったらいいなと思っている。本人に見せることはないけど。

 

 

 

 

推しごと論になってるのかなあこれ。

 

 

名も知らぬ君が推しになるまで

 

 

久しぶりの友達と連番で舞台に行った。

楽しくて、面白くて、話し足りなくて、 寄り道してご飯を食べて帰った。彼女とは推しが違うから、お互いの推しの話をして、 今度行くイベントや舞台の話をして、 それまでに行った舞台の話をして、 私も彼女も推しが二人いるから、 忙しいねなんてことを閉店時間まで話した。

二人目の推しは先日まで舞台に出ていて、 こんなことがあったんだよ、という話をした。

その「こんなこと」というのが自分にとって厄介で、 それによって彼を推すことに満足してしまいかけていた。

私の中で、「推し」と「舞台に出たら観たい俳優」がいるが、 後者に対しては「私がなにかしなきゃ!」と思うことはない。 長くなるので割愛するけど、 まだまだ未熟なところがあると応援したいな、 と思うタイプである。

 

だから、彼を推すことに満足しかけていたのは非常に厄介だった。

だって私はまだ推していたい。 でも私の気持ちは満足しかけている。 こんな演技ができるようになったんだ、 こんな挨拶ができるようになったんだ。 未熟なことに変わりはないが、 初めて見たときからは格段に成長している。 そんな気持ちが心を埋め尽くしそうになっていた。

 

そんな折に友達に会った。もちろんこの話もした。 そして彼女はこう言った。

 

「”○○くんが推しになったー!”って話してたときのエピソードが 忘れられない。握手したら手が震えてて、 声も震えてたって言ってたよね」

 

彼女はなんの気なしに言っただけだろうし、 なんとなく覚えていただけだと思うけど、 それでも私は彼に初めて会ったときのことを思い出した。

典型的な「推しに会いに行ったら推しが増えた」パターン。 それ以上でも以下でもない。ただの「推しの共演者」だったし、 正直に言えば顔も名前もわからなかった。 役名すらちゃんと覚えていなかった。(ごめん)

初めて会った彼は緊張していて、握った手は震えていた。 言葉もたどたどしくて、 たぶん話そうとしていたことは飛んでいて、 その場で必死に考えていることは明白だった。それでも、 彼は最後まで目を逸らさなかった。最後に、ありがとう と言って笑った。

 

それだけ。

 

もちろんそれだけで推すことを決めたわけではないけど、 これがきっかけだったのは事実だ。

まだまだ仕事は少ないしそのことを自分で気にしてるしネガティブ だけど、もう握手する手が震えなくなった彼が、 応援したいと思わせ続けてくれる限り推していきたいと思う。

 

 

 

 

 

期待しなければ失望もしない。


タイトルの印象ほどネガティブな話ではありません。たぶん。

わたしはものすごく他人に期待するタイプだ。勝手に期待して、勝手にショックを受けて、勝手に落ち込む。
「他人」の範囲は親、友人といった間柄に限らず、会社の同僚、店員さん、電車で隣に座った人、そしてもちろん、推し。期待という言葉を使うと、なにか大きなことを想像するかもしれないが、この場合は「こうしてくれたらいいな」という期待である。いまこれとこれで悩んでいるんだけど声をかけてくれないかなという期待、もう少し向こうへ席を詰めてくれないかなという期待。毎日小さな期待をしては、毎日小さなショックを受ける。
話したいことがあるけど、話題を振ってくれないかな
落ち込んでいるから、どうしたのって聞いてほしいな
これはもうずっと前からの癖みたいなもので自分の中では当たり前の出来事だったため、小さな期待をすることに違和感も何も覚えていなかった。ただ、勝手に心をすり減らして勝手に疲弊していた。

俳優オタクのページなので俳優の話をすると、全く知らない赤の他人にさえ期待するのだから、当然推しにも様々な期待をする。
この舞台に出るならこうしてほしい
この役をやるならこうしてほしい
きっとで上手く喋れる・演じられるだろう
もっとうまくできるだろう
期待をすることは悪いことではないと思うし、推しだから余計に期待する。余計に期待するから、そうじゃなかったときのショックも大きい。
あげたプレゼントを使ってくれると思っていたのに
ファンサしてくれると思っていたのに
覚えてくれていると思っていたのに
もっとうまく演じてくれると思っていたのに
もっと真面目だと思っていたのに
もっと良い返事をくれると思っていたのに
そんな「思っていたのに」が積み重なって、「推すのに疲れちゃった」「最近迷っているんだよね」と言っている人をよく見かける。かく言う自分もそうだった。
現実的な話になるが、舞台だってイベントだって少なからずお金を使っているわけだから、迷ったまま使いたくない。
そんなときに、俳優オタクでもなんでもない友人に「期待する話」を聞いてもらった。
返事は、「自分で自分の首を絞めているようにしか見えない」と「なんで他人にそこまで期待できるのか全く分からない」とのことだった。ちなみに悪意があって言ったわけではない。友人は、良い意味で全く他人に期待していない。深入りもしないし、「○○してくれた!ラッキー!」程度に思っているそうだ。わたしが当たり前のように期待するのと同じで、彼女は期待しない。


期待しないって楽だ。逆に言えば、期待するってすごく疲れる。期待してその通りにいけば嬉しいけれど、その通りにいかなかったとき、期待値が大きければ大きいほど疲労も失望も大きい。
そもそもなんで推しに期待しているかといえば、「そうしてほしい」はもちろんのこと「出来るだけの能力はあるだろう」と思っているからだった。そして、もう一人の推しには全く期待していないことに気が付いた。
推し2のことになるが、彼には全く期待していない。こういう言い方をすると、かわいそうとか冷たいとか言われるが、そういうことではない。先ほどの通りで言えば、「出来るだけの能力が無いだろう」と思っているのだ。推し1より若いし経験もほとんど無い、人見知りだし、トークが苦手だし、なんなら売り出し方も定まっていない。
推し1に対しては、できるだろう(もしくは、これくらいできて当然)という期待を持ってしまっているが、推し2に対しては、今日もぐだっとしたトークになるかな、と思うくらいである。
推し1が期待にそぐわず結果を出せないとものすごくショックを受けるのに対し、推し2が一言でも上手いことを言えば、少しでもがんばりをみせればそれだけで「よく頑張ったねーーーーー!!!!!!!!」と褒め称えてしまう。
経験や能力の差といえば確かにその通りだが、二人ともわたしの推しには変わりない。二人とも好きだし、頑張ってほしいし、活躍してほしい。



考えを改めてほしくてこんなことを言うわけではないけど、これを読んだ誰かが、こんな考え方もあるんだと少しでも楽になってほしいと「期待」して、このブログを書いている。


続けて出ていた舞台の卒業が決まり、別の舞台への出演が決まったときどう思うか。



他にしっくりくる表現が見つからなくて「卒業」と書いたけど、A(続けて出ていた舞台)とB(別の舞台)の公演期間的にBをとったのかな、と思われるキャスト発表があったとき、どう思うか。
もちろん、先に卒業が決まっておりスケジュールが空いていたからBに出演するのかもしれないし、先にBへの出演が決まっていたからAを卒業したのかもしれないし、それは分からない。そこに言及したいわけではないし、そんなものはどっちでもいい。
なにせまだその経験がなかったから、そうなったときに自分はどう思うんだろうとずっと考えていた。
なんて考えていたら、心の準備ができないうちに掲題のキャスト発表があった。
驚きだとか悲しみだとかの感情が溢れるTLのなかでわたしはただひらすらに喜びだった。もっとショックを受けるかなと思っていたので、これは我ながら意外な結果。(もちろん驚きはした)
Aの舞台や役が好きじゃなかったわけではない。ずっと見ていたし、むしろすごく好きだった。卒業が発表されたときは自分なりに悲しかった。「Bの舞台に出るくらいだったらAの舞台に出ていてほしかった」という声も見た。
それはたしかにそう思わないこともないけれど、私の意見として、
1 新しい役に挑戦してくれる
2 既に出来上がっている世界(Bはシリーズもの)に入るために試行錯誤してくれる
3 個人的に好きな俳優との共演が見れる
4 Bの舞台が好きな人に見てもらえる
5 新しい舞台、新しい役を見ることができる
といったところが浮かんだ。

Aの舞台に続投してほしかったかと聞かれたら、答えはイエスだ。好きなキャラの役をしてくれていたし、これからのストーリーを推しの演技で見たかったなと今でも思っている。きっとAでその役を見たら比べてしまうし、推しだったら……と思うことはきっと1回や2回では済まないだろう。もしかしたら、違う子が演じるAの舞台を見たら「やっぱりこっちに出てほしかった」と思うかもしれない。それでも今は、嬉しさの方が大きい。





A…原作が好きで詳しい、舞台も好き
B…原作は知っているけど見たことがない、舞台は気になっていたけど見ていない